教育の標準化を考える

2018.04.30 Monday 15:00
0

     

    大切なものを守り抜くために・・・立往生の意味とともに・・・

    〜教育の標準化を考える〜

     

    4月30日は、源義経が無くなった日です。そして、家臣である弁慶が、敵の矢を体で受け止めながら義経を守りつつ立ったまま果てた日です。最後まで主人を守り抜いた弁慶の美しい心を、現代の人々は、ナンセンスと思うのか?それとも、美しい心と思うのか?どのように感じるのでしょう?

     

    辞書を引くと、立往生の意味は、「身動きが取れない状態になること」と解釈されています。しかし、それは弁慶が果てた姿をそのまま現した意味であり、弁慶の心内は違うと思います。弁慶は「一途に義経(大切なもの)を守り抜こう」としたただけでしょう。

    本来の弁慶の心内を考えるならば「一途に大切なものを守ろうとする」のが、立往生の意味なのではないでしょうか?

    (あ、辞書に文句を言っているわけではありません。)

     

    弁慶の心内を思えば、私たち教育者、そして、保護者のみなさまも、そして、人は誰でも、「子どもたちを一途に守る存在」であると言えます。そう考え、大切な子どもたちの教育を受ける権利を主張し、その権利を平等に与えることの権利主張は、これまでの課題でした。

     

    そ・し・て、やっと数年前、変化が・・・。

    新子ども・子育て支援制度(平成27年:2015年)における幼児教育の「標準化」がクローズアップされました。「標準化」つまり、すべての子どもに等しく、教育を受ける権利を表したことになります。幼稚園であっても、保育園であっても、こども園であっても、「幼児教育」が同じように受けられる仕組みづくりが目指されることになったのです。そして、それは、次の3つを大きな柱として展開されています。

     

    標準化される「幼児教育」において、非認知能力を培うことを基盤におくこと

    小学校との連携強化

    家庭との連携強化
        

    非認知能力の育成については、家庭の環境と教育の質により左右されます。ですから、より家庭連携の重要性が増してきました。それから、「幼児教育」が基盤に据えている“非認知能力”は「幼児期の終わりまでに育って欲しい10の姿」(文部科学省のページ:幼稚園教育要領参照)を完成年度とはせず、あくまでも、認知能力とあいまって小学校そして中学へと引き継がれる発達課題であるという面においても、小学校との連携に大きく深く関連性を持っているのです。つまり、「10の姿」は、小学校との接続期の子どもの育ちを、幼稚園と小学校で一緒に考える上での、ある種の手がかりであり、まさに、共通の継続課題といえます。さらに、「10の姿」に収まらない多様な育ちを、小学校以降どのように育っているのか、「主体的・対話的深い学び」の営みの中で、どのように生かされ、成長しているのかを幼稚園教育の中において、私たちが、小学校へ求める新たな連携の形と捉えています。 

     

    ごちゃごちゃと書き綴り、私自身も疲れたので・・・今日はこのくらいでおしまいにします。 

    が、わたくし自身、子どもたちを一途に守る存在として・・・最後に気になっていることをひとつだけ。

    2014年頃から幼児教育無償化を進める方針が打ち出されました。気になるのは、この先行きです。時の文部科学省の林大臣が、この問題をどうなさるのかはわかりませんが、検討事項に入っています。メリット・デメリットがありの複雑な要素が絡み合っているので、おそらく簡単に進めることが難しいのでしょう・・・。教育者の立場から、教育の標準化は大切なことですが、この問題については・・・いったい弁慶がどこに立っていいのか、立ち位置がわからなくなっているのが現実かも知れません。

     

    ごきげんよう。

     

    category:Mika 別室 | by:SLAS日本部ブログ | - | -

    Calender
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << April 2018 >>
    Selected entry
    Category
    Archives
    Recent comment
    Link
    Profile
    Search
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered
    無料ブログ作成サービス JUGEM